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ボクシング界最強の世界チャンピオン達~チャンピオン名鑑~

白井義男 | ボクシング界最強のチャンピオン達~チャンピオン名鑑~

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白井義男 | ボクシング界最強のチャンピオン達~チャンピオン名鑑~

白井義男は言わずと知れた日本ボクシング界にとって初めて世界チャンピオンに輝いたボクサーです。
1955年5月30日、白井義男vsパスカル・ペレス・リターンマッチでは視聴率96.1%という驚異的な数字はボクシングのテレビ視聴率はおろか、現在のテレビ放送視聴率の中でも未だ破られていない大記録です。その驚異の数字が物語るように戦後の日本の星でした。

腰痛で引退間際に追い込まれたとき、その頃ジムに出入りしていた、生物学者・アルビン・R・カーンと出会い、カーンの支援の下でボクシングの練習を積みます。ライバルピストン堀口との激闘や名言・ファイトマネーに至るまで、ボクサー白井義男に関することを紹介します。


目次

日本ボクシング史上初の世界チャンピオン白井義男

白井義男。日本ボクシング界で初めて世界チャンピオンに輝いた人物であり、ボクシング界の礎を築いた人です。

生涯戦績58戦48勝(20KO)8敗2分。右のアウトボクサー。 

とにかく前へ出ることがボクシングの美学のように教えられていた当時のボクシング界において、トレーナーのカーン博士により打たれないボクシングを学び、徹底したガードと正確なパンチで、「打たせないで打つ」という近代的スタイルを徹底します。

その結果15年間もの長期にわたって日本フライ級チャンピオンに君臨し続けた花田陽一郎や拳聖と呼ばれたピストン堀口の弟である堀口宏らとの対決を制し、結果をもってボクシングの近代化を日本ボクシング界にもたらします。

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日本ボクシング界において、「拳闘」から「ボクシング」への劇的な変化をもたらした功績は大きいといえるでしょう。

ボクサー白井義男の経歴

白井義男は1923年(大正12年)東京に生まれます。

ボクシングにのめりこんだきっかけは小学6年生時の夜祭りの時、カンガルーとボクシングをやるという余興があっていたそうです。そこでカンガルーに負けてしまったことが白井義男をボクシングを真剣にはじめたきっかけであるといわれています。

ボクシングは、野球と同じように西欧から来たスポーツということで敵国のスポーツと言われていたが、格闘技としての価値はあると認められ戦争中もボクシングは「拳闘」という名前に変え存在し続けていました。

1943年、20歳の時に彼は近所のボクシング・ジムに入門し、当時は現在のようにしっかりとした組織もなかったため、白井は2週間後にはデビュー戦のリングに上がったとされています。

しかし驚くべきことにそのデビュー戦のリングで中堅どころの選手を1ラウンドでKOしたといいます。

やはりボクシングセンスは並外れたものがあったといわざるをえません。

その後も、8戦全勝という敵なし状態が続きます。

しかし、戦況が悪化したためにボクシングの興行自体なくなり、彼も戦争に召集され、飛行機整備を担当する部署に配属された後、硫黄島の基地に向かう予定だったのですが、すでに大型の輸送機が不足し始めており、彼の硫黄島行きは中止となりました。

この時、もし白井が硫黄島に行っていたら、間違いなく彼はそこで亡くなっており、歴史が変わっていたでしょう。

かろうじて、彼は無事に終戦を迎えることになります。

しかし、厳しい軍人としての生活や栄養不足により、持病の腰痛が悪化し、練習できなかった2年半のブランクもあって、ボクサーとしての選手生命は危機的状況にありました。

1948年、彼はすでに25歳になっており、限界を感じ、引退を考え始めていたようです。

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カーン博士との運命の出会い

カーン博士との運命の出会い

しかしちょうどその頃、一人の外国人がジムに訪れたとき、白井の動きに目を止めて、彼の練習を指導させてほしいと申し出たのです。

その出会いこそが白井義男の運命を変えることになる奇跡出会いとなります。

その人こそがイリノイ大学で生物学と栄養学の教授を勤めていた、アルビン・ロバート・カーンでした。「カーン博士」と呼ばれていたその人物は、、戦後、日本の食糧支援のために海洋生物資源の調査のため日本に来ていました。

当時すでに56歳だった彼の趣味はボクシングでしたが、それは趣味であると同時に、運動生理学を研究していた彼にとってそれはもうひとつの専門分野だったともいえます。そんな彼だからこそ、白井のボクサーとしての才能に気がついたのです。

こうして白井が所属する日拳ジムの許可を得たカーンは、彼の生活費を援助するという条件で彼の専属コーチとなりました。

カーンのボクシング理論は明解でした。

ボクシングはショーではない。スポーツなのだ
ボクシングとは、相手に打たせず、自分が打つ

 

当時日本ボクシング界で最も人気があったのは、拳聖・ピストン堀口で、彼のスタイルである前進・前進の攻撃中心の玉砕戦法的スタイルは、そのまま日本人ボクサーすべてのボクシング・スタイルとなっていました。

こうしたスタイルに対し、カーンはあえて守りから試合に入り、打たせずに打つというスタイルを徹底させました。

そのためには相手を上回るスピードとスタミナが求められます。

そのスタミナやスピードを養うために食事面から変えて生きました。

幸いにして、カーンの実家が富豪だったこともあり資金には余裕がありました。

そこでカーン博士は米軍のルートを利用することで白井に栄養豊富な食事をとらせました。

そのおかげもあり彼の体力はみるみる回復し、そしてスピードとスタミナを得ることができました。

カーン理想の、「打たせずに打つ」というこれまでの日本のボクシングにはないアウトボクシングスタイルを学んだ白井は、復帰後も連戦連勝を続け、1949年、当時の日本チャンピオンである花田陽一郎を5ラウンドKOで倒し、日本フライ級タイトルを奪取します。

カーンはより強い相手を求めて、フライ級の一階級上、バンタム級の日本チャンピオンであり、あの伝説の「拳聖」と呼ばれたピストン堀口の弟である、堀口宏とのダブル・タイトルマッチを実現させます。

当時、この試合は「世紀の一戦」と呼ばれ、NHKラジオが初めてボクシング中継をを取り上げました。

そういった背景からこの試合は日本中の注目を集めました。

そして、白井はこの試合にも勝利し、見事日本タイトル二階級制覇を成し遂げました。

カーンはこの試合で自信を深め、ついに世界タイトルへの挑戦を考え始めます。

しかし、当時日本人の世界挑戦というのは誰もなしえたことのない夢のまた夢のような話です。

白井義男・世界挑戦への道のり

誰もなしえたことのない世界タイトルへの挑戦。

当時、日本人ボクサーが世界戦を行うことには様々な障害がありました。

単に実力があれば良いというわけではありません。

これは、現代のボクシングにも通じますね。

ジム選びを間違うと、実力があってもチャンスをものにすることはできません。

昔、地方の小さなジムで、東洋タイトルをするためにチャンピオンを呼んでくる費用がなく、それでも無理をしてチャンピオンを呼んだがその選手が敗れてしまい、潰れたジムを知っています。

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その選手はジムの会長の息子だったので、会長も無理をしたんでしょうね。。
 
話はそれましたが、試合を組むにも力やお金が必要で、ボクシングは実力だけでは成り上がれません。

話を戻しますが、挑戦するためには、巨額の資金が必要です。

当時はテレビもなかったので、放映権料を得ることはできません。

なので、スポンサー探しも困難です。

それに、チャンピオンとコンタクトの取り方、どうやったら世界タイトルマッチを組めるのか、条件の交渉はどのようにすればいいのか、挑戦するために必要なことを知っている人は当時誰もいませんでした。

それに現在のようにビデオどころかテレビもない時代に、世界チャンピオンはどれほど強いのか全く分かりません。

インファイターなのか、アウトボクサーなのか、なんの情報もない時代です。

そういったことを考えていくと、白井にボクシング先進国であるアメリカ人のカーン博士という優秀なブレーンがいなければ、世界への挑戦など考えることはできませんでした。

そういったことを考えると、白井義男は日本で最も偉大で幸運なボクサーだったといえるかもしれません。

そして彼はさらに幸運なことに、白井の世界挑戦実現のために、もうひとり重要なアメリカ人の助っ人が現れることになります。

それは、当時の世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノのプロモーター、サム一ノ瀬です。

サム一ノ瀬がハワイ、マウイ島出身で、日系二世であることに目を付けたカーン博士は、「日本に錦を飾らないか」と日本での試合を申し込むと、両親の国である日本に思い入れがある一ノ瀬は、ノンタイトル戦ならと試合の申し込みを受けます。

当時の世界チャンピオンであるダド・マリノはフィリピン系の移民で、アジア人であるため、チャンピオンになるまでに様々な苦労があったそうです。

それだけに一ノ瀬は「同じアジア人である日本人にもチャンスを与えたい」と考えたようです。

そしてついに1951年、当時の世界チャンピオンである、ダド・マリノが来日します。

オープン・カーで銀座・新橋間をパレードし、何万人もの観衆を集めたそうです。

今では考えられない盛り上がり方ですね。 
この試合は勝ってもタイトルを奪取できないノンタイトル戦であったにも関わらず、後楽園球場に25000人もの大観衆を集めた試合で、白井は大健闘し、結果は判定負けではありましたが互角の戦いを演じました。

この結果により、白井は一気に世界ランクに入ります。

7ヵ月後の再戦では、ホノルルでマリノと対戦し、今度はなんとノンタイトル戦ながら見事7ラウンドTKO勝ちを収めてしまいます。

そうなると、いよいよダド・マリノ側も正式なタイトル・マッチをしなければならなくなります。

しかし、ここでまたしても壁が立ちはだかります。

白井側は、チャンピオンのファイトマネー25000ドルをはじめ、タイトルマッチを開催するための資金を白井陣営は準備できなかったということです。

しかしここでも一ノ瀬の助けが入ります。

すでにダド・マリノは35歳。

前戦の敗戦を見てもマリノの敗戦は近いと考えていた一ノ瀬は、チャンピオンの座を日本のボクサーに渡し、ついでに自らもお金を稼ごうと考えたのか、タイトル・マッチの興行権と白井が勝った場合の次の試合の興行権との引き換えという条件で資金を提供してくれました。

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白井義男 [負けたら腹を切る」覚悟で挑んだ命がけで、そして日本ボクシング史上最も偉大な勝利!!

1952年5月19日、日本初の世界タイトルマッチはなんと後楽園球場で行われました。

この日の観客はなんと4万人!日本のボクシング史上未だ破られていない大記録だそうです。

この時、白井はすでに29歳。これが最初で最後のチャンスだったかもしれません。

試合前カーン博士は白井に

ヨシオ、やることはすべてやった。お前は勝てる。日本は戦争に負けてみんなつらい思いをしているだ。 ヨシオがアメリカ人のマリノに勝って、日本人に元気づけるんだ。

と、アメリカ人のカーン博士は白井に言ったそうです。

この試合、前戦でKO負けをしているマリノはけっして油断はしていなかったはずですが、白井はマリノを圧勝し、文句なしの判定勝ちを収めます。

敗戦により、誇りも失っていた日本にとって、この日の勝利はある意味、戦後復興の象徴だったともいえます。

タイトル奪取後、白井は初防衛戦でマリノとの再戦にも勝利し、4度のタイトル防衛に成功します。

しかし、5度目の防衛戦で、パスカル・ペレス(アルゼンチン)との試合に敗れついにタイトルを失います。

このパスカルペレスとの再戦、視聴率はなんと96,1%!
これは日本ボクシング史はおろか、日本の放送視聴率のなかでも未だ破られていない大記録です。

おそらく今後も破られることはないでしょう。

パスカル・ペレスとの再戦でも彼はペレスに完敗し、ついに引退を発表します。

白井義男の引退後

白井義男の引退後、カーン博士は、アメリカへは帰国しませんでした。

かといって他のジムへ移り、ボクシングの指導者になるわけでもなく、日本で白井とその家族と一緒に生涯暮らし続けました。

白井の結婚後も、彼はまるで白井家の舅のような存在となりましたが、カーン博士が認知症になった後も彼の世話をし、その死を看取りました。。

きっとカーン博士が見込んだ白井義男という男は、ボクシングの才能だけでなく、そういった義理堅い、人間性も含めてのものだったのでしょう。。

その常に一緒にいる白井とカーン博士をみて、同性愛者だったという人もいるようですが、それは今や確認しようもない事実です。

もし、そうだったとしても、そういった想いを感じつつも最後まで看取った白井の行動は美談以外になりようもないと思います。。

カーンは大富豪の息子だったこともあり、多額の遺産を残たそうですが、彼は生前常に

ボクシングはモンキー・ビジネス(汚い仕事)だから、絶対に手を出すな

といい続けていたそうです。

そのため、白井はジムをその忠告を守り続けました。

1995年に具志堅用高と共に白井・具志堅スポーツジムを設立しますが、白井は同ジムの名誉会長に就任したものの、経営は全て具志堅用高が行っております。

2003年12月26日肺炎で死去。 享年80歳。。

日本ボクシング界の最も偉大な勝利をおさめ、多大な功績を残した白井義男氏の死には多くの人が涙しました。

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