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ボクシング界最強の世界チャンピオン達~チャンピオン名鑑~

海老原博幸 | ボクシング界最強のチャンピオン達~チャンピオン名鑑~

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海老原博幸 | ボクシング界最強のチャンピオン達~チャンピオン名鑑~
カミソリパンチの海老原博幸。ファイティング原田・青木勝利と並んで「フライ級三羽烏」と呼ばれた選手です。
一撃で試合を終わらせるパンチ力を持つ海老原博之は、試合後繰り返し手術台に上ります。
世界チャンピオン・ポーン・キングピッチをわずか1ラウンドで倒した衝撃のKO劇。 そしてわずか4ヵ月後の再戦での王座陥落劇・・・。
チャンピオン海老原博幸をご紹介します。

海老原博幸はとてもパンチのある選手として有名です。

カミソリ・パンチと呼ばれるその強打は、あまりにも強すぎるため、7度も拳の骨折という結果につながり、繰り返し手術をすることになります。

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また精神力もあり、試合中に拳を骨折しても、それを試合が終わるまで耐えていたそうです。

海老原を含む多くの世界チャンピオンを育てた、名トレーナーエディ・タウンゼントも後に

一番ガッツがあったのは海老原だった。海老原は本当の男だ

と語っています。

ボクサーにとってパンチがあるというのは、相手に恐怖心を与え、とても強みになります。

しかしこれは癖になり、特に今ほど医療の進んでいない戦後のボクサーにとっては致命的な弱点であったといえるでしょう。

現在の井上尚弥にも共通する、深刻な悩みだったと思います。

2度目のタイトルを獲得したホセ・セベリノ戦では試合前に骨折した右拳に打った麻酔が試合中に切れてしまい、途中左拳も痛めたが、激痛を堪えて最終ラウンドまで戦いました。

また、海老原の最後の試合となる、バーナベ・ビラカンポ戦でも試合の序盤に右拳の骨折と左肩の脱臼というアクシデントに見舞われたが、最終ラウンドまで戦い抜いたそうです。

痛々しい話ですが、拳が折れたからと言って試合を投げることはできませんからね。。右拳を使えず、左拳まで痛めてしまったホセ・セベリノ戦など、どれほどの絶望感があったか想像すると胸が痛いですね。。

ボクシング引退後は協栄ジムのトレーナーやテレビ東京のボクシング解説者を務めたが、過度の飲酒により肝機能障害を患い、1991年4月20日に51歳という若さで亡くなります。

現役時代のライバルであるファイティング原田は

俺は親の葬式でも泣かなかったが、海老原が死んだ時は泣きまくった

と大ショックを受けたそうです。

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海老原博幸がボクシングをはじめたきっかけ

まだ10代だった当時の海老原はトンカツ屋で出前のアルバイトを募集していた為に面接に行きます。

このトンカツ屋で新規のアルバイトを募集した時に来たのが海老原博幸だったそうです。

海老原が応募した求人広告には、

特典:ボクシング教えます

という一行が書き加えてあったそうです。

いかつい顔の店主がじっと海老原の体や足を見て「縄跳びしてみろ」と言います。

海老原は何の意味があるのか判らなかったものの、とにかくバイトで金を稼ぎたかった海老原は店主の言うままにジャンプやダッシュを繰り返した結果、この親父は海老原のボクシングの才能を見出し面接の後すぐに店を畳み、1959年、「金平ジム」(のちの協栄ジム)を設立します。

その時の練習生は海老原一人だったそうです。

この店主こそが日本最多の世界チャンピオンを輩出する名門・協栄ジムの創設者、金平正紀です。

運命の出会いを果たした二人は、菓子折りを近所のジムへ行き練習を始め、馬小屋を改造した小さなジムを拠点とした。これが日本屈指の名門・協栄ボクシングジムの歴史の始まりだそうです。

あの有名なボクシング漫画、あしたのジョーの丹下団平と矢吹丈のモデルはこの海老原と金平の出会いではないかという説もあります。

海老原博幸 プロデビュー後

1959年9月20日、当時19歳の海老原はついにプロデビューを果たします。

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1960年12月24日、後の世界2階級王者・原田政彦(ファイティング原田)との東日本フライ級新人王決定戦を行いますが、前半に2度のダウンを奪われ、6R判定負けで初黒星が記録されています。

1961年1月から1963年11月まで29連勝(16KO)1分を記録します。
わずか3年足らずで29戦というのは昔だからできたことですね。

現在のプロボクサーは多くて年に4試合。 大抵3試合程度です。

その上グローブは現在より薄い6オンスの小さなグローブ。
そのグローブで殴り合い、回復までの時間を十分にとれない当時のプロボクシングはかなり危険なスポーツだったことは否めないでしょう。

1961年4月5日、当時無敗であった三羽烏(ファイティング原田・海老原博幸・青木勝利)のライバル、青木勝利と対戦し、2RKO勝ちを果たします。

1962年の大晦日・12月31日、弥栄会館にて後のWBA世界フライ級、WBC世界同級チャンピオンで、当時OBF(OPBFの前身)東洋フライ級チャンピオンであるチャチャイ・ラエムファバー( タイ)と対戦し12R判定勝ちを果たします。

しかしこの試合はチャンピオンが計量に失敗し王座を剥奪され、海老原が勝利した場合に東洋チャンピオンとなるというルールではありましたが、試合後にチャチャイ陣営が体重オーバーによる2オンスのグローブハンデを付けられた事に抗議し、タイトル獲得は無効となります。

しかし、海老原が東洋チャンピオンを破ったという事実は残ります。

海老原、ポーン・キングピッチを破り念願の世界タイトル獲得!!

1963年9月18日、東京都体育館にて世界フライ級王者ポーン・キングピッチ( タイ)に挑みます。

当時海老原は同級4位。

万全の状態で試合を迎えた海老原は、自慢の左で初回から2度ダウンを奪い、そのまま1RKO勝ちで世界王座を獲得します。

海老原の強打に足が痙攣したチャンピオン・ポーンは、立ち上がることができずそのまま10カウントを聞きタイトルを失います。

この瞬間、白井義男・ファイティング原田に続く3人目の日本人世界チャンピオンが誕生しました。

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約4か月後の1964年1月23日、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムにて行われた初防衛戦は、前チャンピオンであるポーン・キングピッチとのリターンマッチとなります。

実はこの試合前、海老原はまたしても拳を痛めており、手数があまり出すことができないという状態での試合となります。

そんな状況の中でも海老原は2ラウンドに左をクリーンヒットさせポーンをグラつかせるなど前半は優位に試合を進めます。

しかし、後半ポーンの老練なボクシングに苦しみ、10Rラウンドには左目をバッティングで負傷します。

ポーンにペースを握られつつも最後まで堪え、前半ポイントを稼いだ海老原が優勢と思われたが、やはりタイでの試合なので地元判定負け(1-2)で王座から陥落します。

その試合の約3か月後の4月30日、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムにて後のWBC世界フライ級チャンピオンであるアラクラン・トーレス( メキシコ)と対戦し、12R判定勝ち(2-1)をおさめます。

1965年1月3日には、過去3度戦っているOBF東洋フライ級チャンピオン、中村剛と4度目の対戦を10R判定勝ちで制します。

1965年
5月7日、ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムにてWBA世界フライ級1位として同級2位のアラクラン・トーレスと世界王座挑戦権をかけて再戦。1R早々ダウンを奪いペースを掴み、7Rには左ストレートから連打を浴びせて再びダウンを奪う。トーレスが立ちあがった所に追撃し通算3度目のダウンを奪い、7RTKO勝ち。

1966年7月15日、ブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにてWBA・WBC世界フライ級統一チャンピオンであるオラシオ・アカバリョ( アルゼンチン)に同級1位として挑戦します。

しかしこの試合前に左拳を痛めており、4R目にさらにその左拳を痛め、骨折しました。

そのため、左手が使えず、右手のみで追いかけ回したが、惜しくも15R判定負けを喫しタイトル奪取には至りませんでした。

敗れた海老原に再びチャンスが巡ってきたのは1967年8月12日。

世界タイトル挑戦が決定していた田辺清(田辺)が網膜剥離にて引退ことにより、ピンチヒッターとして再びオラシオ・アカバリョの世界タイトルに挑戦することができました。

会場は日本ではなく敵地のブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムで行われます。

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序盤はリードするものの、6Rに左拳を再び骨折、後半アカバリョの反撃に見舞われ、序盤のリードを奪い返され、またも0-2の僅差判定で15R判定負けを喫してしまします。

三度チャンスが舞い降りたのは1969年 3月30日。

空位となっていたWBA世界フライ級の王座決定戦に出場する機会をつかみます。

今度の会場は日本の札幌中島スポーツセンターにてWBA世界フライ級2位として同級1位ホセ・セベリノ( ブラジル)と対戦。

しかし海老原はまたも練習中に右拳を痛めてしまい、試合前に痛めた右拳に麻酔を打って試合に臨むみますが、その麻酔が3Rに切れてしまった上、激痛に見舞われます。

その上9Rには左拳も痛めますが、苦痛に耐え終始優勢に試合を進め、大差の15R判定勝ち(3-0)をおさめ、再度世界タイトルを獲得します。

その後初防衛戦は半年後の10月19日、同級2位のバーナベ・ビラカンポ( フィリピン)と行います。

序盤は互角の打ち合いを演じましたが、3Rに公開スパーリングで負傷していた左肩を痛め、右手一本で戦い続けることになり、10R以降はダウン寸前に陥るほど一方的に攻められ、15R判定負け(0-3)を喫し、前回に引き続き今回も初防衛に失敗します。

試合後に右拳も骨折していた事が判明します。

この試合を最後に海老原は引退を決めます。

この試合は当時トレーナーであったエディ・タウンゼントは

タオルを投げる事も考えたが、海老原が拒み続けたので投げられなかった。僕の中で観ていて一番辛い試合だった

と後に語っています。

1970年1月に引退します。

恵まれた才能とパンチ力。
昔のボクシングはグローブが薄く、試合感覚も短い。 その上医療も充実していないということで、この拳を痛めやすいという弱点が現代よりも強く表れてしまったようですね。

この海老原が現代の選手のコンディションを重視してくれる環境でボクシングをすることができたら、もしかしたらとんでもないチャンピオンになっていたかもしれませんね。

しかしそれは、意味のない空想でしかないのかもしれません。

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